カテゴリ:記憶( 5 )

チョコレートを飲む

夕方の5時過ぎにレッスンを終えた生徒が、「あ、まだ外は明るいよ」と嬉しそうに話している。「本当だ、ずいぶん日が長くなったんだね」と窓から空を眺めてみた。今年は雪もなく暖かい冬を過しているが、それでも日が短いことで、冬になると何か閉ざされたような圧迫感を感じてしまう。逆に日が少しずつ長くなっていくことで、春に向かっているんだというワクワクした気持ちが芽生えてきたりもする。季節や日照時間によって、案外気持ちって簡単にコロコロ変わったりするようだ。

暗くて長いと言われる北欧の冬を過ごしている人たちは、どうやってその閉ざされた時間を過ごしているのだろう。子供の頃、世界地図を見るのが大好きだったが、ノルウェーのずっと北に位置する町を地図上に発見して、その街並みや暮らしを想像したりした記憶がある。何人かの生徒たちがグリーグの小品を弾いているので、またしてもそんなことを思い出した。日照時間が短いので、暮らしを快適にするために照明に工夫を凝らしたり、ポップなテキスタルデザインが描かれたりするらしい。これは北欧とは関係ないが、子供の頃に読んだ物語に、寒い冬にお母さんが子供に「温かいチョコレートを飲みなさい」と言う場面が登場し、驚いたことがある。当時、チョコレートといえば板チョコのようなものしか知らず、チョコレートを飲む、という表現にとても魅せられた。外国にはチョコレートという飲み物があるらしい。甘そうだけど、寒い冬なら身体を温めてくれそうだし、チョコレートを飲むなんてとても洒落ているようにも感じられた。暖炉のある外国のお家でお母さんが作ってくれるチョコレートを飲む、という場面を想像しながらウットリしたものだ。今ではホットチョコレートと聞いて驚く人はいないけれど、私はやはりチョコレートを飲んだことはないような気がする。調べてみるとココアとは作り方が違うようだし、国によってホットチョコの定義が変わるらしい。カフェに行けばコーヒーを飲むので、やはりホットチョコレートとはなかなか縁がない。ゴディバでは季節限定のシナモン入りのホットチョコレートが登場するらしいし、NYではマシュマロ入りのホットチョコレートが人気らしい。そういう情報は簡単に手に入るが、寒いお家でお母さんに作ってもらうチョコレートを飲むという憧れがまだ残っている。
by bake-cat | 2010-01-29 12:09 | 記憶

友達

時間の経過とともに、過去の出来事が遠い霧の向こうに霞んでいくように感じることがある。過去の一時期、確かに揺るぎのない現実として存在したことが、ドアをいくつも隔てた別の世界へ遠のき、目を凝らして見ようとすればするほどその実体は霞んでしまう。そんな過去の1ページがいくつものドアを蹴破って自分の目の前に飛び込んでくる、そんな体験をした。遥か昔、若い青春時代を一緒に過ごした仲間の一人が、遠くカナダから会いにやって来てくれたのだ。彼は、やはり私達の昔の仲間だったチェリストと結婚して、今はプロの指揮者として活躍している。聡明で、人懐っこく、それでいて大変繊細な感覚の持ち主である。その繊細さ故、どんな大人になったのだろうと不安もあったが、迎えに行った駅でひと目見た瞬間、そんな私の心配を吹っ飛ばす彼の姿があった。自信に満ちた堂々とした姿。そして人懐っこい優しい性格がその瞳に表れている。駅の小さな改札口で、人目も憚らずに2人で叫んで抱擁した。

今回は日本に留学する18歳の息子を伴っての旅である。彼の奥さんに似た息子は少しはにかんだ様子で、彼の後ろに立っていた。あれから20年以上たち、こうしてお互いの子供たちを伴って再会できる喜びを実感した。そして彼の口から、私の記憶の引き出しの奥に眠っていた同級生や仲間たちの名前とその近況が語られる。とても不思議な感じがした。それは時間が経ってしまったことだけではなく、物理的な距離、そして精神的な距離があまりに大きくなってしまったから。でも、やはりそれら過去の体験は現実のもので、現在の自分を作っている大きな柱になっていることを感じた。その認識は嬉しいものだった。昔の仲間たちの多くは現在オーケストラで演奏し、大学で教えたり、また音楽的なマネジメントに携わっている者たちもいる。私の記憶にあるのは若い頃の彼らの姿だが、逞しく生きているであろうその現在の姿を想像し、何か大きなエネルギーのようなものを貰えるような気がした。

もしかしたら年月というのは残酷なものかもしれない。人は親からもらった遺伝子や、育った環境に左右されながら生きているが、20年以上の時間は言い訳を許さない重みがある。どう生きてきたか、そんなことがその人の表情や立ち振る舞い、ちょっとした言葉の端々に正直に表れる。彼と話しながら、自分自身はどう生きてきたんだろう、と振り返る自分がいた。過去の扉が開いて、現在と有機的につながることは、思ったより重い体験なのかもしれない。でも感動的でもあった。「世界は以前より小さくなってきたんだ。また昔の仲間達と新しい付き合いが出来るはずだし、そうすべきだよ」という言葉に励まされたりもした。彼は2日間、私達一家と過ごして、大きな笑顔を残して帰って行った。

話は変わるが、昨夜、夫が新しいPCで地球の写真を見せてくれた。雲の切れ間から南北アメリカが見える。「良く見てごらん。地球の表層はこんなに薄いんだ」と夫が指差した部分には確かに薄い膜のようなものが見える。その薄い膜が空気の層らしい。この薄い膜の中で右往左往しているのが人間なんだね、と話しながら溜め息をついた。なんだか無性に寂しくなったり、美しい地球の姿に感動したり、複雑な気持ちになった。ジタバタしているうちに、どんどん時間は流れていく。今の私にはその流れていく時間は愛おしい存在だし、やはりいつまでもジタバタしていくのが人間なのかな、と思ったりもした。
by bake-cat | 2009-10-15 13:56 | 記憶

ふくろう

数日前のことだが、台所に居た夫が「あ、ふくろうだ」と呟いているのが聞こえた。その時は特に気にも留めなかったが、その夜、就寝時間になってベッドに横たわっていると、外から聞こえてきた・・・・・ホー、ホー、ホー 
「あ、ふくろうだ」と私も呟いた。自宅の前には山があり、子供達の恰好の遊び場所になっているが、鳥の鳴き声もよく聞こえる。しかし、深夜にこれだけはっきりふくろうの声が聞こえてきたのは初めてだった。低音の深い鳴き声。何か嬉しいことでもあったのだろうか。

トンプソンという小さな子供向けのピアノの本に「夜のうた」という曲がある。
「こんばんは みみずく ホーホッ ホーホッ わしのことかね ホーホッ ホーホッ はてな」 この曲で子供達は初めてフラット2個を勉強するのだが、静かな森に響くみみずくの声は変ロ長調にピッタリである。そんなことを考えながら眠りについた。

翌朝、夫にふくろうが鳴いていたことを話すと、「リリちゃんかな」と一言。
大学生の娘が保育園に通っている頃だから、かれこれ14,5年前のことだが、暗い夜道を車で走っている時に、弱って道路に降りてきたふくろうを見つけ、無謀にも自宅へ連れて帰ったことがある。娘はリリちゃんと名付けて大喜びし、食欲のないふくろうに餌をあげて面倒をみた。その後、私と娘はしばらく家を空け、自宅へ帰るともうリリちゃんはいなくなっていた。夫の話によると、少しずつ食欲が戻るにつれ元気になり、最後には野生のたくましさが復活したらしい。「ちょっと近づくのも恐い感じだったよ」と苦笑していた。そして外の世界へ帰って行ったらしい。リリちゃんはどうしているかなと今でも時々話題に上ることがある。ふくろうは長生きらしいので、リリちゃんが挨拶しにもどってきたのかもしれない、と空想を膨らました。
by bake-cat | 2009-06-06 12:17 | 記憶

脳という一人部屋

立春を過ぎた頃から、空気が軽くなったような、風がまろやかになったような気がしていた。
気が早いと知りながらも「春」という文字が頭をよぎる。
今年は久しぶりの大雪に見舞われたが、その雪も姿を消し、ブーツや長靴の必要のない日々が戻ってきた。人に会うと、「このまま春になるといいですね」が挨拶代わりになっている。

茂木健一郎の「生きて死ぬ私」という本を読み終えた。
私が最近考えていたことや、言語化できないけれど自分の中にモヤモヤした状態で溜まっていたことが、偶然にも分りやすい文章で綴られている。正確なデーターを基に理論的に構築していかなくてはいけないサイエンスの中に、ヒューマニティーの問題や心の謎を織り込もうとしている若い茂木健一郎の姿がある(著者33歳の書)。科学と心という、ある意味交わることが難しい2つの世界を繋ぎ合わせながら、人間の心の闇の世界を脳科学的に見てみたい、という思いが散りばめられている。
 
私は子供の頃から、脳という身体の一部分に捕らわれ、そこから決して脱出することが出来ない人間の運命を呪ってきたような気がする。そしてこの闇の世界は意識、無意識を含めてあまりに壮大で自分の手には負えない代物であることも。それは年齢を重ねながら、人生経験を積んでも、何の解決の糸口すら見えない怪物のようだ。そういえば、子供の頃、他人の脳みその中が怖くて仕方がない時期があった。小さな頭蓋骨に納められた深遠な世界。決して外からは見えない世界。

8,9歳くらいの頃だが、考えを煮詰めていくうちに、自分以外は人間ではない、というとんでもない結論に達してしまった。外見として見える部分と、脳ミソの中は全然違った代物だ。そう考えると合点がいくような気がした。
笑い話になるが、ある時この疑問に対して正面からぶつかろう、という思いが突然湧きあがった。そして、いつも一緒に遊んでいた友達の春美ちゃんに、その疑問を投げかけた。
「正直に答えてほしいんだけど・・・・・ あなた人間じゃないでしょ?」
「・・・・・・・」
「私を騙しているでしょう。あなたは人間じゃない」
「人間よ」
「だから、正直に答えてって言ったでしょ」
こんな突拍子もないことを突然言われて、春美ちゃんも驚いたことだろう。
面食らったような表情を今でも覚えている。そして押し問答の末、春美ちゃんはすっかり怒ってしまった。その後も時々、私の心に浮かんだ疑問を彼女に投げかけては、困らせていたような記憶もある。それでも仲違いしなかったのは、彼女の心の広さのお陰かもしれない。

茂木健一郎の本を読みながら、こういった幼い日の記憶が甦った。
あれから長い年月が経ったが、脳ミソの世界は解決するどころか、ますます不可思議な存在として自分を取り囲んでいる。遠くに住む友人の顔や姿を思い出したり、声を心の中で再現したり、以前食べた美味しい料理の匂いや食感も思い出すことが出来るが、それだって私の脳が勝手に作り出した幻影かもしれない。やはり脳ミソから脱出することは出来ないらしい。

若者から年配の人まで、それぞれが独自の心の問題で悩んでいるのを見るにつけ、この深遠な世界に恐れを抱きながら、同時に震えるほど魅せられてしまう自分がいるのである。
by bake-cat | 2009-02-11 23:30 | 記憶

雪の記憶

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元旦に積もった雪はあっという間に解けてしまい、もうこのまま春を迎えるのかしら、などと気の早いことを考えていたら、久しぶりに寒波が押し寄せて町は雪で覆われた。
もともと真冬の気温がマイナス10度以下という北の寒冷地で生まれ育った私は、本来は雪にも寒さにも強いはずだが、西日本のこの町に長く住んで、すっかりここの気候に慣れてしまったらしい。雪が降る度に大騒ぎしている自分が滑稽にすら感じることがある。
この辺りも昔は毎年、腰まで雪が積もっていたらしいが、ここ数年は本当に雪が少なくなってしまった。それを単純に温暖化という言葉で片付けていいものかは甚だ疑問だが、地球自身にも色々と事情があるに違いない。
郷里の雪と違い、ここの雪は湿っていて大変重い。当然雪掻きも重労働である。そして、子供たちは雪遊びに夢中である。
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昨年札幌から越してきた知人によれば、ここは除雪車が来るのも遅く、大きな灯油タンクが外に設置されていないので不便だと言っていた。寒さや雪に対する準備が充分とは言えないのかもしれない。

思い出話になるが、私が通っていた小中学校では、冬の体育はスケートであった。あの当時、どの学校の校庭にもスケートリンクがあるのが普通だった。リンクといっても、校庭にただ水を円形に撒いただけの簡単なものだが、今思い返すと不思議なリンクである。あれは先生や保護者が必死になって作ったものなのだろうか。もしかしたら子供たちも一緒に雪を踏んだりして手伝ったのかもしれないが、そこの記憶は何故か抜け落ちている。そして、スケートの授業では皆がスピードスケート靴を履いて、ひたすら何週も何週も滑るのである。滑り方を丁寧に教えてもらった記憶が少ない。とにかく滑るのである。マイナス15度くらいの凍てつく寒さの中で、スケート靴の紐を結ぶのはしんどい。そして私はこのスケートがどうしても好きになれなかった。全員が下を向きながら黙々と滑る。そこに何のコミュニケーションもない。暗いスポーツだな、と内心思っていた。結局、自分が下手で、格好良く滑れないことを、そうやって単にすり替えていたにすぎないのだが。
同級生に普段は大人しくて目立たないのに、とてもスケートの上手な子がいた。彼女は腰まで髪を伸ばしていたが、スケート大会にはこの長い黒髪を揺らしながら美しく滑るのである。同性ながらその姿が魅力的に見えた。それに引き換え、決して滑らかとはいえない自分の姿は惨めで、このスケート大会はズル休みをしたいくらい気の重い行事であった。

その後、私は高校はスケートのない学校へ進んだ。もちろん、それだけが理由ではないけれど、スケート授業がないことは把握していた。そして中学を卒業する時、もう二度とスケートはしないと決め、確かにそれ以来スケート靴を履くことは今までなかった。でも、何かの巡り合わせでスケートの魅力を子供ながらに感じるような機会があり、もう少し練習に身を入れていたら、案外楽しい思い出として残っていたかもしれない。

雪が降ると、記憶の連鎖で子供の頃の思い出が甦るが、そういうちょっぴり苦い思い出も今となっては懐かしい大切な記憶として残っているのである。
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      (今朝は太陽が顔を覗かせ、雪が輝いていた)
by bake-cat | 2009-01-11 17:57 | 記憶