パリジェンヌ

私の自宅は小高い丘を削った住宅地にある。ここに越してきた当時は家が少なく、2階の窓から遥か遠くに海が見えたものだが、今では家が増え、窓から見えるのは隣の家の壁だけになってしまった。自宅に通じる坂のふもとの家では、どうやら数匹の猫が飼われているらしい。天気の良い日に気持ち良さそうに日向ぼっこをしている姿を見かける。

遠い過去のことになってしまったが、夫と一緒にパリに住んでいたことがある。遠い過去といっても様々なことが鮮明に記憶に残っており、窓を開けたときの空気の匂いまで昨日のことのように思い返すことができる。まだ娘が生まれる前のことで、私は有り余るほどの時間を自分のために使うことが出来た。思えばなんとも贅沢な時期でもあった。当時、私達が住んでいた家の近くには大きな公園があって、そこには黒猫の一族が住んでいた。公園を訪れる人達からチーズやパンをもらい、言わば「認知された住人」のような存在。そしてその一族の中でも飛び切り美しい若い黒猫がいたが、この子が一番人懐っこく、公園の入り口でいつも愛嬌を振りまいていた。

ある日、「お泊り会」と称してこの猫を自宅に連れて帰った。私は自由気ままな生活ながら、異文化の中で寂しかったのだ。フカフカした椅子の上で「トグロ」を巻いて眠る猫の背中を撫でては、随分と癒されたものである。大家さんはトムという名の犬を飼っていたが、トムとこの猫が唯一の友達であったのかもしれない。しかしながら、猫を飼ったことのない私は飼う決心がなかなかつかず、数日すると公園に連れて帰った。そんなこと数回繰り返したある日、公園に10歳くらいの女の子とお父さんらしき男性が来ていた。女の子の側には動物用の籠が置かれ、その猫を指差しながら盛んに何かを話している。その子が猫を連れて帰ろうとしているのは明白だった。ぐずぐずしているうちにチャンスを逃してしまった、あの猫は女の子の家で飼われるのだ、と長いツヤツヤした尻尾を見ながら後悔した。もう会えなくなる・・・そう思うとたまらなく寂しくなった。その子はかなり長い時間迷っている様子で、お父さんが何かを話しているが私に内容は分からない。遠くから女の子とお父さんのやりとりを眺めていたが、私は半ば諦めていた。しかし、女の子はその日、猫を拾うことなく空のケージを提げて帰ってしまったのだ。日を改めようとしたのかもしれない。その子がいなくなると、直ぐに猫を抱き上げたのは言うまでもない。責任をもって大事に飼おう、と決心はついていた。「お泊り会」でその猫を連れて帰るのは慣れていたが、その日に限って太った黒猫が後をついて来た。一定の距離を保ちながら、心配そうな表情で自宅の近くまでついて来た姿が今でも眼に浮かぶ。ふと、この太った猫は母親なのではないか、とその時思った。「心配しないで」と心の中で呟くと、そっときびすを返して公園の方へ戻っていった。今、思い出しても不思議な体験であった。

その猫はクロと名付けられ、その後私達が帰国した時も一緒に飛行機に乗って日本までやって来た。そして日本の片隅の小さな町で、なんと18歳まで生きたのである。私のあぶなかしい育児を心配そうに眺め、日常のゴタゴタに耐え、色々な分岐点を一緒に通った仲間のような存在だった。美しい猫だったが、野良育ちの逞しさと自立心は失わず、一定の距離を保ちながらも家族の一員として生活を共にした。

クロは日本の風土や食べ物にはすぐに慣れたように見えたが、チーズは最後まで好物だった。
故郷の公園や母親のことを思い出すことはあったのだろうか。
Commented by yspringmind at 2008-11-18 21:14 x
こんにちは。知らなかった。パリに暮らしてたことが会ったんですね。其処でであったクロちゃんを日本まで連れてきたばけねこさんの愛情を私はとても嬉しく思います。私がアメリカで飼っていた猫はある日、裏の入り口の戸をコンコンと叩いてやってきた、捨て猫でした。生まれて多分半年くらいのやせっぽちの猫で、どうやら隣の家が引越しの時おいていった猫のようでした。そうしてうちの家族になったけど、私達はイタリアに連れてくる勇気がなくて私たちの一番の友達のルームメイトとして受け入れてもらいました。その13年後、猫は死んでしまったけど多分幸せだったと思う半分、連れてこれなかったことが後悔なんですよ。そんなことを日記を読みながら思い出しました。
クロちゃん、時にはパリの暮らしを思い出したのかもしれませんね。チーズが好きだったところを見ると。
ばけねこさんのブログ、リンクしても良いですか。
Commented by bake-cat at 2008-11-18 23:56
yspringmind さん、こんにちは。
パリに住んでいたのは1年間でしたので、長い人生の中ではほんの一瞬の出来事です。でもその1年間はその後の10年間に匹敵するほど印象深く濃い時間だったように思います。yspringmind さんはアメリカからイタリアに来られたんですね。裏口をコンコンとノックしたyspringmind さん猫ちゃんの姿を想像しながら、「手袋を買いに」という絵本に出てくる可愛い子ぎつねを思い出しました。本当に猫との出会いも様々ですね。
私達も帰国する時、クロを連れて帰ることを随分と迷いましたが、日本での引っ越し先が田舎だったので思い切ることが出来ました。都会だったら無理だったかもしれません。その代わり、当時のシベリア鉄道に乗って帰国することは諦めましたけれど。それから8年後、再度パリを訪れた際、クロを拾った公園に行ってみましたが、もう猫は住んでいませんでした。
リンクは喜んで!よろしくお願いします。
Commented by september30 at 2011-10-30 23:19 x
ばけねこさん、こんにちは。
こうしてリンクを通して古い記事に帰っていくのもいいものです。それを読んだ時の3年前の自分を思い出します。
パリから飛行機に乗って山陰の田舎に行った猫というのも歴史上では最初でしょう。
その猫が今度は東京からやって来たのですね。
ばけねこさんはその名のとおり猫を惹きつけるのかもしれません。
Commented by september30 at 2011-10-31 22:52 x
ひとつ書き落としました。
上のコメントのyspringmindさんのブログを通して私たちもお知り合いになれたのでした。私はその彼女にも実はボローニャでお会いしたのですよ。何という軌跡の交錯でしょう。
Commented by bake-cat at 2011-11-01 09:49
septemberさん、こんにちは。
古い記事を再読していただき、ありがとうございます。
また我が家に猫が来たので、前任者?に敬意を払って、古い記事を引っ張り出してリンクしました。
この猫をパリから連れてきた時は何故か機内持ち込みだったんです。長旅でしたが、荷物棚の中で数時間、残りは何と私の膝の上で大人しく耐えてくれました。懐かしいです。

ネットがない時代には考えられないような出会いが可能になりました。yspringmindさんにもお会いされたんですね。考えてみると不思議なご縁です。
by bake-cat | 2008-11-15 00:00 | 一休み | Comments(5)