カフェ文化

他国の様々な文化を取り入れては自分流にアレンジするのは日本人の得意とするところだが、今ひとつ根付かないものにカフェという存在がある。

お茶を飲む場所としては、日本にも昔から喫茶店があった。子供の頃、何か特別なイベントがあった日は、ソフトクリームを食べに両親に連れて行ってもらった記憶がある。また、高校時代に定期テストが終わると、友達と何時間も喫茶店にこもっては尽きない話をした。携帯電話もDVDもない時代はそんなことが唯一の楽しみだったのだ。当時、喫茶店は大抵ビルの地下にあり、やたら低くて座り心地の悪い椅子と、タバコの煙、そして乱雑に積んだ漫画本があった。私の喫茶店の記憶はそんなところである。

大人になってヨーロッパに行き、初めて日本の喫茶店とは違ったカフェの存在を知った。
青春時代を英語圏内で過ごした私は、結婚してパリに住み始め、見知らぬ惑星にでも引っ越したような戸惑いを覚えたものである。あんなに苦労して習得した英語はそこでは役に立たず、日本人社会とも全く無縁であった。何にも属さないことが心地悪く、根無し草のように不安だった。そして、時間がある時はひたすら歩き回った。町中のいたるところにカフェがあったが、道路に向かって一列に並んだ椅子を見て、あんなところに座ってお茶を飲むのはさぞかし落ち着かないだろう、と思ったりしたものだ。そのうち歩き疲れたり、ちょっと喉が渇いたりすると、一人でふらっとカフェに入るようになった。

カフェでの時間の過ごし方は色々である。
店の奥に座って一人はがきを書いたり、テラス席で通りを行き交う人々を眺めながら、時間の流れにゆったりと身を委ねたりするのである。
日本と違い、比較的湿度が低くて夏も過ごしやすい欧州では、店の前にも椅子を並べて短い夏を楽しむ。
私の記憶ではカフェの奥にはきちんとクロスをひいたテーブルもあり、かっちりした食事も取れるようになっていたように思う。もちろんカウンターでお酒を楽しむ人もいた。「カフェ」という舞台の上で、それぞれが自分のスタイルで思い思いの時間を過ごすのである。正に大人の空間である。
様々な不安や思いを抱えながらも、カフェという非日常の空間に身を置くことで、思考を中断させ、自分の意識を遊ばせる。周りが巨大スクリーンに映し出されるカラフルな映画で、自分の世界だけが白黒の世界に感じられることもあった。また自分にエネルギーが満ちている時は、周りの風景も力強く映し出されるような気がした。こうして色々なカフェで、私は大衆の中の孤独を楽しむ事をほんの少し経験したのだ。

最近は日本でもお洒落なカフェが増えたらしい。パリのように道端に椅子を並べたお店の写真を雑誌で見かけることがある。しかし、車が多く、色の氾濫した看板で溢れている日本の町並みには少々似合わないような気もする。
神戸にはヨーロッパ調のシックなカフェがあるが、コーヒーもデザートも大変高価で、心の中がざわざわして落ち着かない。

パリで途方に暮れ、アイデンティティーを探し求めていた頃から長い時間が経ってしまった。時代も、自分を取り巻く環境も、そして自分自身も大きく変わった。でも移り変わる時間の中で、迷路に入り込み一人戸惑うことも少なくない。また、子供たちが大きくなり、自分の時間も少しずつ増えてきた。仕事の合間や、日々の生活の中で零れ落ちたちょっとした時間・・・・そんな時間を包み込んでくれるカフェで、一人深煎りのコーヒーが飲めたらいいのに、と思うことが少なくない。
日常にさらっと存在する非日常の空間。そんな場所がほしい。
by bake-cat | 2008-05-14 22:26 | ひとりごと

ばけねこです. 美しい自然に囲まれた小さな町で細々と音楽活動をしています


by bake-cat