友達

時間の経過とともに、過去の出来事が遠い霧の向こうに霞んでいくように感じることがある。過去の一時期、確かに揺るぎのない現実として存在したことが、ドアをいくつも隔てた別の世界へ遠のき、目を凝らして見ようとすればするほどその実体は霞んでしまう。そんな過去の1ページがいくつものドアを蹴破って自分の目の前に飛び込んでくる、そんな体験をした。遥か昔、若い青春時代を一緒に過ごした仲間の一人が、遠くカナダから会いにやって来てくれたのだ。彼は、やはり私達の昔の仲間だったチェリストと結婚して、今はプロの指揮者として活躍している。聡明で、人懐っこく、それでいて大変繊細な感覚の持ち主である。その繊細さ故、どんな大人になったのだろうと不安もあったが、迎えに行った駅でひと目見た瞬間、そんな私の心配を吹っ飛ばす彼の姿があった。自信に満ちた堂々とした姿。そして人懐っこい優しい性格がその瞳に表れている。駅の小さな改札口で、人目も憚らずに2人で叫んで抱擁した。

今回は日本に留学する18歳の息子を伴っての旅である。彼の奥さんに似た息子は少しはにかんだ様子で、彼の後ろに立っていた。あれから20年以上たち、こうしてお互いの子供たちを伴って再会できる喜びを実感した。そして彼の口から、私の記憶の引き出しの奥に眠っていた同級生や仲間たちの名前とその近況が語られる。とても不思議な感じがした。それは時間が経ってしまったことだけではなく、物理的な距離、そして精神的な距離があまりに大きくなってしまったから。でも、やはりそれら過去の体験は現実のもので、現在の自分を作っている大きな柱になっていることを感じた。その認識は嬉しいものだった。昔の仲間たちの多くは現在オーケストラで演奏し、大学で教えたり、また音楽的なマネジメントに携わっている者たちもいる。私の記憶にあるのは若い頃の彼らの姿だが、逞しく生きているであろうその現在の姿を想像し、何か大きなエネルギーのようなものを貰えるような気がした。

もしかしたら年月というのは残酷なものかもしれない。人は親からもらった遺伝子や、育った環境に左右されながら生きているが、20年以上の時間は言い訳を許さない重みがある。どう生きてきたか、そんなことがその人の表情や立ち振る舞い、ちょっとした言葉の端々に正直に表れる。彼と話しながら、自分自身はどう生きてきたんだろう、と振り返る自分がいた。過去の扉が開いて、現在と有機的につながることは、思ったより重い体験なのかもしれない。でも感動的でもあった。「世界は以前より小さくなってきたんだ。また昔の仲間達と新しい付き合いが出来るはずだし、そうすべきだよ」という言葉に励まされたりもした。彼は2日間、私達一家と過ごして、大きな笑顔を残して帰って行った。

話は変わるが、昨夜、夫が新しいPCで地球の写真を見せてくれた。雲の切れ間から南北アメリカが見える。「良く見てごらん。地球の表層はこんなに薄いんだ」と夫が指差した部分には確かに薄い膜のようなものが見える。その薄い膜が空気の層らしい。この薄い膜の中で右往左往しているのが人間なんだね、と話しながら溜め息をついた。なんだか無性に寂しくなったり、美しい地球の姿に感動したり、複雑な気持ちになった。ジタバタしているうちに、どんどん時間は流れていく。今の私にはその流れていく時間は愛おしい存在だし、やはりいつまでもジタバタしていくのが人間なのかな、と思ったりもした。
by bake-cat | 2009-10-15 13:56 | 記憶